ミスタ-は永遠!
2025年6月3日。 長嶋茂雄、ミスタ-プロ野球が永眠されました。
6月3日は愛娘、三奈さんの誕生日。死亡時刻は、6時39分で全て「3」の倍数。そして、なんと『89』というまさに「野球」のために生まれてきた人に間違いない。
長嶋さんのエピソードは数えられないくらいあります。テレビでも新聞でも報道されています。
野球に対する情熱がそれらのエピソードを上回っているから魅力的でもありました。
デビュー戦では、金田投手から4三振。次の日の最初の打席も三振。実は5連続三振。新人王を獲得するも
30本塁打のはずが、1塁ベースの踏み忘れで、1本塁打損して29本塁打。
翌年の天覧試合では、2ホームラン。1本がサヨナラホームランというスーパ-スタ-の誕生。
数々の記録も残していますが、同時に王さんという偉大なる選手が後輩として入団。 王さんも、はじめは三振が多く「王、王、三振 王」とやじられたんだよ、と父親から聞きました。
どちらも巨人、野球界を支えたスターですが、王さんが「記録」を残すなら、長嶋さんは「記憶」に残るスーパ-スターと言われてます。
母親は大の長嶋ファン!
こういう方はたくさんいると思います。 巨人ファンでないけど長嶋ファンも多いですね。
母親は巨人ファン以上に長嶋ファン。 いまも巨人の試合は注意深く見ていますが、少しでもピンチになるとチャンネルチェンジ。 テレビをつけた時に負けていたら、その日は試合を観ません。 負けが確定すると夜のスポ-ツニュースも見ない。 当然、これが逆ですとスポ-ツ番組の追っかけですwww
コロナが流行る前は、毎年オープン戦を東京ドームの一塁側内野指定席を取って観戦しに行ってました。
高齢もあり、座席を階段のそば、通路側を確保する。 良いシートでゆったりと観戦できるチャンスはこの時くらいでした。 コロナ明けは階段も大変になり、今は行けなくなりました。
巨人の日本一優勝パレ-ドも銀座に観に行きました。 バスになってからは2回行ったはずです。朝早くから沿道に行きじっと待ってました。 こういう時は早起きができるようで。。。数時間待って、ほんの5分くらいでしょうか、実際に選手を観られるは。それでも毎年、今年こそは観に行きたいと言っています。 さらには「長嶋さんが元気なうちに優勝をみせてやらない」と毎年の口癖となってました。
自宅に、1本の電話。。。
2004年1月13日20時20分頃に 我が家の黒電話(固定電話)が鳴りました。
この年の3月に長嶋さんは脳梗塞を発症し、アテネ五輪監督を辞退されています。 ミスタ-のためにと選手は必死で戦いました。 メダルはどうあれ長嶋監督がオリンピックで采配をふるう姿を見たかったものです。
2003年ころ、我が家内はものものしい雰囲気の日々が続いていました。 現在も問題となっている老人の介護。 我が家は祖父母、父母、私、妹と6人暮らし。
月日が流れ祖父が亡くなり、 元気だった祖母も年々老いて、病気が増え入退院を繰り返すようになりました。
退院はうれしいのですが、我が家での介護は大変でした。
こんな話は世界中どこでもある話。 まだまだ楽なほうだと感じるかたの方が多いでしょう。
しかし、私を溺愛してくれた祖母が弱っていく姿。そして、祖母も自分では出来ない事も増えてきて、ある日、ベッドで寝ている祖母が私に『せつねがてぇ!』ってぽつりと言いました。 何もできない私は情けないぁという日々でした。 祖母は幸いにも痴ほうは発症することはありませんでしたが、老いての我がまま度合いは進みました。 一日中母親、父親、私を呼ぶようになりました。 それもたわいもないことで。
父親、私は昼間仕事。 母親の心労は増すばかりでした。 そして夜中の対応。特に下の世話は母親が。
怒号が飛び交うまではいきませんでしたんが、いつ新聞沙汰のようなことが起こるのでは?と日々不安な生活続きました。 家庭内のことは、本当に外からではわからないものです。
元気づける方法。。。
母の心労は募るばかり。 これは大好きな『長嶋茂雄』に元気づけてもらおうと考えました。 もう長嶋さんしか元気づけられる人はいないと。 しかし、家に来てもらえるはずもなく、電話をかけてもらえるはずもない。
それならと手紙を書こうと思いつき、ハガキ一枚に我が家の現状を書きました。 どんな内容を書いたかも文面に失礼があったのかも一切覚えていません。
ハガキの表面は、郵便番号と 住所は 『〇〇区 田園調布』 氏名は 『長嶋茂雄様』 だけ。
現在では絶対に届かず返却されるハガキ。 良く届いたなぁと思います。
当時はきっとこのようなハガキはたくさん届いていて、読売巨人軍の関係者の方が仕分けして片づけているだろうと考えて投函しました。
投函日は2003年12月31日だったと思います。
出来れば、読売巨人軍から『いつも応援ありがとうございます』のハガキ一枚でも届いてくれればと思っていました。 ほんとにハガキ一枚でも届いてくれれば、少しでも母親を励ますことができるのではという思いでした。
あまりにも言葉を並べてて、裏面いっぱいになり、電話番号は漢数字の縦書きで左隅に書いたことだけは覚えています。 『もしかしたら、、、』という気持ちはあったと思います。
2004年1月10日、、、
年が明け、1月10日祖母は息を引き取りました。 明治生まれの91歳。
当時は自宅でお葬式をすることが多かった時。住み慣れた自宅から天国へ行きました。
わたしは最後まで『もっと何かできたのでは、、、』と後悔ばかりでした。
お通夜、告別式と滞りなく進み、父の妹たちも自宅へと帰りました。 父、父の弟、母親、私との4人でひと段落した時間に。。。
1月13日20時20分ころ、電話が鳴りました。
祖母の死を知って誰かかけて来てくれたのか、または墓石などの営業電話かと軽く気持ちで出ました。
第一声はナガシマです!
第一声は『ナガシマです!』
私はどこのナガシマさんだろうか? 祖母に知り合いは居なかったなあと色々と考えました。
次の一言で確信したのです。
『長嶋です。 〇〇区のよしみでかけさせてもらいました』
そこからは、急いで母親に代わりました。 私はどんな挨拶をして母親に変わったことの記憶も飛んでいます。
いまではなく翌日でも思い出せませんでした。
覚えているのは、母親が正座し、泣きながら長嶋さんと会話をしていたこと、だけです。
どうお礼を言って電話を切ったことも覚えていません。
ただただ感謝というより信じられないという気持ちでした。
ありがとう。ミスタ-プロ野球!
この話を信じない方もいるかもしれません。 そんなデタラメに書いた住所で長嶋さんが電話してくれるわけがない。と思われても仕方ありません。
しかし、我が家にとっては家宝となる一本の電話でした。 父親も叔父もびっくり。 母親は泣きながらも高揚していました。 祖母が旅立った、その日に電話がくるとは。 それもやっと落ち着いた時間に。まるで見ていたかのような感じでした。いまなら録音とか簡単にできるかもしれませんが、そのころごく普通な黒電話しか利用していなかったのが残念です。
たった一枚のハガキで、それもまったく面識のないファンに電話をかけてくれるとは。
まさにファンを大切にするという見本だと思います。
ほんとうに『感謝』という言葉だけでは足らないくらいのミスタ-プロ野球。
いままで本当にありがとうございました。
我が巨人軍は永久に不滅です。 長嶋茂雄ファンも永久に不滅です。
ミスタ-もなるはずだったメジャーリーガー。いま、大谷翔平選手を中心に大活躍しています。
天国から野球界を応援してください。
では、またです。